2011年11月12日

認知症に対するリハビリテーション : 認知神経科学的根拠に基づくアプローチ(2)

認知症のリハビリの目的

まず、認知症の人にリハビリを行う目的とは何なのでしょうか?
認知症のケア(介護も医療もここでは区別しません)を考えるとき、筆者はいつも「もし自分が認知症になったら」と考えることにしています。そこに矛盾しないケアを考える、それが最善のケアだと信じているのです。
以前にお話ししたことがある(<附>「もしもあなたが認知症になったら」)のですが、認知症の人はだんだん自分が今までの自分ではなくなっていく不安と、社会や家族の中で自分の位置(立場や居場所)が失われていく孤独感を感じて生きています。断片的によみがえる過去の記憶も、楽しいことばかりとはいえません。失敗や傷心を伴っていることもあります。それらは「戻っては来ない」記憶ですし、もう一度体験するだけの若さもありません。頼りない自分、認知症が進むとそうした記憶すら浮かんでくることが少なくなります。対象のない焦燥感は怒りに転換され、怒りの対象を求めます。認知症の人の内面(心の世界)は、いつも孤独感の中にいるわけです。
そのため、認知症の人をケアするにあたっての共通した視点は「さびしがらせない」ということになり、楽しんでもらえるケア(リハビリ)、一人ぼっちにさせないケア(リハビリ)、思い出を語り合うケア(リハビリ)などが取り入れられるようになりました。
こうした取り組みは、どれもケースバイケースでそれなりの効果を上げてきました。しかし、こうした取り組みも長く続けていくと、取り組む主体者側にも疑問と焦りが見えてきます。「笑わせていくら」「楽しませていくら」で、人間の尊厳は満たされるのか、歴史に刻まれないとしても少なくとも地域や家庭を築いて守り抜いてきたこの人たちへの畏敬の念は失われていないだろうか…と。
認知症の人を包み込んでいる孤独な世界観は、自分がなくなる、位置が失われる、新たな体験をする意欲も出ない、といった種々の要因から生まれた結果世界であります。
つまり、認知症の人に対するリハビリの目的とは、自己の意識を高め、主体性と協調性を取り戻し、「自他共に生きる」自分を見出すことだと言えます。「さびしがらせない」ケアは、その具体策であって、私たちはさらにその先にある、リハビリの目的を達成しているか否かを検証することが必要です。続きを読む
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認知症に対するリハビリテーション : 認知神経科学的根拠に基づくアプローチ(3)

目的達成のための戦略

では、目的達成のための戦略とはどのような根拠に基づいたものなのでしょうか?認知症のリハビリはどこに注目して行うべきなのでしょうか?

そのためにはまず、認知症の人にはどんな障害があるのか、ここでもやはり、スタート地点に戻って考えてみることにしました。その結果、次の3点に着目することにしました。
中核症状に由来する障害
周辺症状に由来する障害
廃用症候群に由来する障害

認知症の中核症状といえば、記憶障害、判断力障害、実行機能障害、遂行機能障害、見当識障害、失行、失認などが挙げられます。これらは、主に大脳辺縁系や大脳皮質の連合野と呼ばれている領域 (前頭連合野、側頭連合野、頭頂連合野、後頭連合野)が分担している機能障害に当たることがわかります。
たとえば、前頭連合野の障害が目立つと遂行機能障害が、頭頂連合野の障害で失行・後頭連合野の障害で失認が、前頭葉底部や大脳辺縁系の障害で記憶障害がおこると考えられます。
一方、認知症の周辺症状は、幻覚・妄想、徘徊、異常な食行動、睡眠障害、抑うつ、不安・焦燥、暴言・暴力などで、これらは神経細胞の脱落に伴った残存細胞の異常反応であると考えられています。量的に少なくなった大脳辺縁系や連合野が、性格・環境・人間関係など、様々な要因が絡み合った日常の中で、オーバーヒートした状態と捉えることができます。
廃用症候群とは、病気などにより体を動かさない状態が長く続いたために起こる筋力の低下した状態を指し、寝たきりになることをいいます。前述の中核症状や周辺症状が脳の障害による症状であるのに対して、認知症にみられる廃用症候群は、意欲低下という中核症状に付随して、筋骨格系・循環器系などの身体的な機能が全般的に低下する二次的機能障害であると言えます。

さて、廃用症候群が、脳以外の身体機能の障害からくる症状とするなら、認知症の人に対するリハビリもここから始めたほうが成果が上がるのではないかと考えやすいですが、実際にはそうではなく、廃用症候群は「治療するのは困難で、長期間時間が必要」といわれます。廃用症候群に対するリハビリとは、運動療法が主たるものですが、感覚経路や運動経路の障害によっておこった運動機能の低下の場合と違い、認知機能の障害の結果として現れた運動機能の低下を改善するには、認知症のリハビリに運動療法としてのリハビリを加えるわけですから、さらに困難を極めることは容易に想像がつきます。それならば、神経再生は期待できないとされる脳の障害から来る中核症状は、リハビリで治療効果を挙げることなど無駄な抵抗にすぎない、治療者の自己満足に過ぎないことになるのでしょうか?
経験論から言えば、そんなに否定的になることはないと思います。廃用症候群にしても「長期間時間が必要」と述べたように、時間をかければある程度の満足度が得られる結果を生み出すことは可能です。その期間は半年以上に及ぶこともありますが。また筆者は、神経再生あるいは神経回路の再構築はあるというのが持論であり、それゆえに促通訓練も有効なリハビリなのだろうと考える一人ですから、脳の障害があるからといってあきらめる必要はないと考えています。現に、脊損で前医から症状固定といって見放された寝たきりの患者さんを杖歩行まで回復させたこともあります。

それでは、どんな方法論でこれらの障害と向き合い、リハビリの目的である、自己の意識を高め、主体性と協調性を取り戻し、「自他共に生きる」自分を見出すことを実現することができるのでしょうか?
上述したように、認知症の症状は、中核症状も周辺症状も、大脳皮質の連合野の働きと密接な関係があります。したがって、そのリハビリも連合野の働きを活性化するものとなればよいといえます。
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認知症に対するリハビリテーション : 認知神経科学的根拠に基づくアプローチ(4)

前頭連合野と心的イメージ

そもそも脳の連合野とはどんな働きをしているところなのでしょうか?(<附>イラスト 大脳皮質連合野の働き)
たとえば前頭連合野は「心の座」であると言われるように、連合野の活動と心の動きは密接なかかわりを持っています。
いかなる運動や動作にも、いかなる言葉にも、いくつかのイメージ(「心的イメージ」「動作イメージ」「運動イメージ」などと呼ばれます)が伴います。
私たちの活動すべてに脳内イメージが伴うのでどこから説明すればよいのか難しいですが、例えば、講演会に出席して資料と一緒にいただいた、ペンとレポートパッドを使ってメモを取ろうとする時の脳の活動についてお話します。目の前のペンもレポートパッドも始めて見るものというわけです。
まずペンを見たときにそのペンの形からどんな仕組みなのかを過去の記憶と照らし合わせてイメージするところから始まります。3色ボールペン、このペンの外観は好みじゃないけどまあいいか、ノックしてペン先を出し入れする仕組み、ノックするところを変えると色も変えられる、プラスチック製だから重くなさそうだ、ペンを持つには指でつまんで持ち上げる、ノックを押すのは親指で、黒を使うなら黒のノックを、字を書くためには親指と人差し指の間に持ち替えて中指を添えて、字を書くにはどのくらいの筆圧を加えて、でも書くのは面倒くさいな・・・これらは無数の記憶や情報を基に脳のワーキングメモリーというところで行っていることを文章にしただけで私たちはいちいちこんな情景を思考しているわけではありません。「ペンを持って字を書く準備をする」という動作の手順とその時の指や手の動きに必要な細かい計算を脳は行っていると想像してみてください。私たちがペンを持って書く準備を実際に行う前にこうした脳内イメージが作られているのです。この中で、このペンは好みじゃないとか、書くのは面倒とか、言っていますが、これも呟きではなく、心のイメージなのです。この人は、多分この後メモは進まないでしょう。
ペンを持って字を書くという動作だけでもその時の脳内イメージを文章にするとこれだけだらだらと長くなります。実際にはもっと緻密で複雑な工程があるのですが。
実はこうした文章を作り皆さんに説明すること自体にも絶え間なく脳内イメージが作られては修正され、それが繰り返されているのです。そこにはもちろん結果予測も含まれます。この言葉の使い方で次の文章にうまくつながるか、すでに次の文章を予測しながら言葉を選んでいます。前の文章を忘れては、次の文章は意味不明の文章になってしまいます。やさしい文体に統一されているかも考えなければなりません。話すときにはまた違ったイメージも作られます。話しながら皆さんの顔色をうかがっています。あくびをしている人がいれば、少し声のトーンを上げます。ちんぷんかんぷんな顔をしていれば、動揺が出て言葉に詰まります。つまり、心の動きが次の動作に影響を与えますし、その時に得た心の情報は将来の動作の参考に蓄積されます。
もちろん言語からもイメージは創り出されます。イメージは感覚情報、運動情報、そして3次元的な空間情報などを組み合わせてその都度作り出されるものです。たとえば、「りんご」のイメージはみな同じ形を最初にイメージします。これは「視覚イメージ」といわれるもので、りんごとはこういうものという知識にあたる部分です。この時にイメージされるリンゴは単なる線ではなく、多くは赤い色のついた、立体の物体になっているはずです。なぜなら自然界に輪郭だけの透明のりんごも平面のりんごも存在しないからです。つまり、人の脳は、知識や経験に見合ったりんごを最初に作り上げ、「青」と言われれば青に変化させ、半分といわれれば半分に切ったリンゴのイメージに修正する作業を行っているのです。さらに、赤いりんごということばから「おいしそうな」りんごが、青いりんごといえば「酸っぱそうな」りんごがイメージされるように、心的イメージもそこに含むことができます。
そしてそのイメージは個々の経験によって全く違うこともときにあります。りんごの「味」や「色」についてのイメージもそのひとつです。先ほど「青いりんごは酸っぱい」と述べましたが、青いのに甘いりんごに出会うと、青いりんご=酸っぱいりんごではないということに気づきます。こうして、青いりんごは一般的には酸っぱいと感じるが、必ずしも酸っぱくはないという知識の修正が行われ、「青いけどおいしかった」という感動もそのとき記憶されます。
私たちは、あらゆる体験の中にそのときの運動情報や知覚情報に加えて、イメージも情報として蓄え、たくさんの経験からそれらの情報を分類処理して社会に適応して生きてきたのです。
そして、この蓄えられたイメージが運動や言葉を表現するときにも重要な役割を果たしているのです。
このように、私たちの言動は、まず、前頭連合野で運動のプロセスをイメージ(運動イメージ)してその情報に照らし合わせて筋肉や関節の動きを調整して運動しています。最近の認知神経科学の研究では、こうした脳の活動は、実際に運動を起こせなくても、イメージの中ですでに脳の活動は遂行しているというのです。この説明はなんとなく判るような気がします。たとえば、ピアニストであれば、目の前に置かれた譜面を見ただけで、ピアノがなくても空でピアノを演奏することができるでしょう。たとえ、そのときに手を抑制されていたとしても脳の活動は変わらないと想像できます。また、壁に釘を打つよう指示されたときも、日曜大工をしたことのある人なら、道具を手にする前から自然とイメージの中で壁に釘を打ち付けているだろうと思います。
これらのイメージ訓練による脳の活性化には、経験や記憶といったものが必要になります。一度も金槌を持ったことのない人、ピアノを弾いたことのない人では、たぶん、ピアノの演奏会風景や大工さんの仕事場などをイメージするにとどまります。このイメージはいわば想像であり、運動や知覚にかかわる脳の領域は活性化されません。続きを読む
posted by 99 at 02:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 認知症